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洋服記念日

由来 ~昭和4年に第1回の式典~

 明治5年11月12日かねてから研究中であった政府は、太政官布告(第373号)をもって

”爾今礼服には洋服を採用する”

と布告し、勅奏任官並びに非役有位社の各大礼服および上下一般通常礼服を改め、それ迄の衣冠を祭服とした。
つまり直垂・狩衣・裃(ひたたれ・かりぎぬ・かみしも)等は全て廃止され、洋服が儀礼時の定服になったわけである。

 そして現在11月12日は洋服記念日。

 この”洋服記念日”制定の由来をたどって見よう。

 昭和初期、当時の東京洋服商工業組合の組長は市瀬三五氏であった、市瀬氏の時代には、組合史に残るいくつかの事業が見られる。

組合本部旗の制定、組合会館の設立、裁縫技術の映画化、東日本洋服商工組合連合会の成立、そしてこの”洋服記念日”の制定である。

 当時、幕末から明治維新を経て鹿鳴館時代の日本服装史の研究家に久保蘇堂という人がいた。
彼は明治5年11月12日太政官布告はその後の洋服業者の運命を左右した重要な要因で、洋服業者はこの日を銘記しておくべきだとし、これを受けて、業界紙「日本毛織新報社」の米田秀吉社長はこの日を「洋服記念日」として何らかの行事をしたらどうかと提言した。
市瀬組長は直ちにこの意見を取入れ、昭和4年11月12日をもって第1回の記念日とした。


 このときの模様を記すと―

 この日早朝多数の組合員が明治神宮参宮橋に集合、組合旗を先頭に市瀬組長以下、蜿々長蛇の列をつくって拝殿の前に行進し、一同整列すると、市瀬組長は次のように宣言した。

 「明治大帝の御聖慮によって、明治初年に日本在来の服制を一変され、洋服をもって礼服と定められた事は、同業者一同の感激惜い能わざるところ…」

 こうして神官の祝詞ののち、市瀬組長は一同代表して玉串を捧げて退出した。

 午後には帝国ホテルにおいてご午餐会を開いた。この時組合幹部区部長、久保氏、日刊紙の各記者、業界紙記者等を招き、市瀬組長からこれより毎年この日を洋服記念日として東京組合はもちろん全国各地の洋服組合において意義ある催し物をすると挨拶した。
久保蘇堂は11月12日のいわれについて講演した。
続いて上原浦太郎氏が、明治大帝が制定以来洋服を愛用されて少しも不服を仰せられたことがないことをあげて、我々洋服業者は奮起しなければならないと力説した。

 以来戦時中一時中断したが、連綿とこの行事は継続して現在に至っている。